「日本人の「普通」が中国人の「劣等感」を刺激する」ことについて

中国に関する興味深い記事を見つけたので、わたしもここで少し考えてみたいと思う。

日本人の「普通」が中国人の「劣等感」を刺激する(日経ビジネスオンライン)

まずは次の問いに対する私の意見から。

そんな中、私はずっと不思議に思っていたことがあった。日中の経済交流や人の往来はこれほど活発なのに、なぜ「日本のいいイメージ」は中国になかなか伝播していかないのか? インターネットがここまで発達し、情報量が増えてもなお、誤解が減るどころか不信感が増し、相互理解へと前進していかないのか? という素朴な疑問である。

 情報の伝達手段に問題があるのだろうか? あるいは、日中関係に関しては、人から人へと「正しい情報」が伝わりにくい何か特別な理由でもあるのか?

 というのは、私はこれまで数多くの中国人と接してきたが、彼らの対日イメージがそれほど悪いとは どうしても思えないからだ。私が比較的親日的な人に会っているから、という要因もあるだろう。だが、親日的な中国人を媒介として、それ以外の大多数の中国から出たことのない中国人に、「本当の日本」について、もう少し正しい情報やいいイメージが広がってもよさそうなものではないだろうか?

インターネットが普及して情報量は激増したが、だからといって相互理解が進む訳ではない。人は往々にして先入観に合った情報を求めるものであり、それに合わないものは無視するものだ。反日感情を持つ者は、日本を肯定する記事よりも否定する記事を好むため、無意識のうちに肯定記事を排除してしまうのだ。

こうなると情報量が増えれば増えるほど理解を阻害する方向へ進んでしまう。情報量が少なければ肯定記事を読む暇も出てくるかもしれないが、情報量が増大して否定記事だけでも読み切れない状態になると、先入観に合わない肯定記事などには目もくれなくなってしまう。

もっとも、日本と中国が政治レベルにおいて実質的に敵対関係にある中で、日本に対して偏りのない評価を下す中国人が存在するのもインターネットの普及に依るところが大きいと思われる。これがまだ情報が閉鎖的で文革の記憶が強く残る80年代だったら、どれだけの在中邦人が中国人の知人友人から絶交を言い渡されていたかわからないだろう。

また、確かに日中間の経済交流や人の往来は活発だが、絶対数で見れば、日本人と直接接触する機会がある中国人は圧倒的に少ない。日本に対する先入観がないのならいざ知らず、強いマイナスイメージが広まっている現在において、日本を知る一部の人間の力のみで全体のイメージを変えることは不可能であろう。

「昔日本に留学していたとき、一番つらかったのは旧正月に帰省して親戚一同が集まるときだったね。何かの拍子で日本のニュースが話題に上ると、伯父や叔母が一斉に日本の悪口をいい出すんだ。(中略)仕方がないんだ。みんな日本に行ったこともないし、日本人とつき合ったこともないんだからさ。日本鬼子(日本の蔑称)のイメージしかないんだよ。反論していたらどうなっていたかって? 誰も自分のいうことなんて信じないよ。言うだけ無駄。言えば逆に総攻撃にあってしまう。」

「~親戚や友人は何かひとつでもテレビで見た実例があると、それを盾にして日本攻撃に出てきます。そうすると、太刀打ちできなくなってしまうんですね……」

これだけ反日感情が広まると、親戚や友人の中に一人や二人強い反日感情を持つ者がいるものなので、その手前日本車などの「目立つ」日本製品の購入を控えるという人も多い。代替品がないわけでもないのに、親戚や友人との関係を壊してまで、ということだ。

ただ、マスコミで流れるような実例を一つや2つ挙げられただけで反論できなくなってしまうのはちょっと情けないと思うが……。

「残念だけど、中国ではまだ外国のいいところを褒めたら周囲の人に嫌われちゃう。大国になったけれど、屈辱の歴史からまだ抜け出せていないし、自信も持てない“ひがみ根性”があるのよ。」

これは一概には言えないと思う。このようなケースもあるだろうが、外国の良い所を褒め、中国を批判する人はいくらでもいる。

ただ、なまじっか愛国心なり民族意識を持つ人が、多少なりとも“ひがみ根性”を持っているのは私も感じるところである。これは現代中国人が教えられる歴史観に由来しているのでは、と思う。古代史を持ち上げすぎる一方で、近代史を必要以上に低評価しているため、そのギャップである「屈辱の歴史」観に苛まれているのだ。

「でも、自分たち中国人がのどから手が出るほど欲しても手に入れられない安心や安全を、日本人はいとも簡単に手に入れている。それなのに、そうしたことに感謝しないどころか、当たり前だと思っている(と中国人からは見える)日本人に対し、劣等感やいら立ちのようなものを感じるときがあるんだ」(中略)「やわでお上品な日本人には厳しい環境で生きている俺たち中国人の気持ちは永遠にわからないだろうな」と彼に言われたとき、私はどんな表情をしていいかわからなかった。

確かに日本人にはこの中国人の気持ちは永遠にわからないだろう。北京人や上海人が北京や上海の戸籍を取得できないためにさまざまな被差別を受けている地方出身者の気持ちを理解できないのと同じだ。

 日本に住む中国人留学生が、必ずといっていいほど本国に住む中国人から聞かれることがある。それは「日本にいる中国人は日本人にいじめられているんでしょう?」という質問だ。「そんなことはないよ。日本人は親切だよ」と真正面から直球で反論しても信じてもらえない。

 ある中国人留学生にこの話をしたら、彼も同じ質問を受けるといい、自分はこのように切り返すと教えてくれた。

「日本は過剰に気を使い合う社会。留学生の僕にもみんなとても気を使ってくれる。だから僕は日本にいてとても居心地がいいんですよ。日本人は中国人のことが本当は好きではないかもしれないけれど、表面上はちゃんと気を使ってくれますよ」

 中国では「気を使われる方が立場が上」という位置づけだ。だから、彼がこのように説明をすると中国人の友だちはみんな納得し、満足そうにしているという。

「僕がこう話していると知ったら日本人の方は気分が悪いかもしれないですね。ごめんなさい。でもこれは、嘘も方便というか、僕なりに中国で日本の印象をよくしようと思ってがんばっているからなんです。バイアスがかかった中国人に、日本について一定の理解をしてもらうための『前進のための誤解』が必要だと自分は思っています。今はその過程にある。わかってください」

少なくとも私は気分を害することはない。他の日本人がどのように感じるのかはわからないが。「前進のための誤解」というのは仏教の「方便」のような考え方で面白いが、そこまでする必要があるのかというのは疑問である。ここでは引用していないので元の記事を確認していただきたいのだが、元記事の筆者も、中国人との交流の際にいろいろな「配慮」をしているようだ。

個人的には過度な気遣いは不要だと考える。言葉は悪いが、中国人を子供扱いしているようで、逆に失礼なのでは、と感じるからだ。

「配慮」は日本の美徳ではあるが、それはあくまで日本人の間で尊重されるものであって、対外関係ではそのまま通じるとは限らない。逆に、過剰な配慮が要らぬ誤解を招くケースもあるだろう。昨今では日韓関係がその際たる例だ。

また、この手の話になると必ず出てくるのが「相互理解を進めよう」という主張なのだが、私は「相互理解」には期待していない。東京人と大阪人、北京人と上海人の間ですら容易では無いのに、国境をまたいだ、しかも海を隔てた間柄で、大衆レベルの相互理解を期待するのは明らかに無理があると思う。

そもそも、一般大衆は外国に対して興味などない。中国に興味を持つ日本人、または日本に興味を持つ中国人など圧倒的に少数派だ。興味がない人に対して理解を促すなど馬耳東風でしかない。

あくまで理想として相互理解を進めるのは良いが、それに期待してはいけない。相互理解できなくても両国関係に支障を来さないシステムを構築する方が確実だ。相手を理解できなくとも関係を壊さずに付き合うことができるのが大人の関係というものだろう。日本としては、中国の拳や唾が降りかからない距離感をつかむことができるようになればそれで良い。

ちなみにだが、中国人との交流においては、私は等身大を心掛けている。中国人だから、日本人だから、と身構えるのではなく、あくまで一個人として接するようにしている。もちろん、これは私のケースであり、他の人にとってもこれがベストであるとは思わない。またその上で、中国人の機嫌を取りたいのならば、かつて日本が中国から多くを学んだことを強調したり、中華料理を持ち上げたりすればそれで十分だ。相手の出身地が知名度の高い地域であるのならば、そのローカルネタで持ち上げるのもよい。これにはそれ相応の知識が必要になるが、それに見合う効果はある。変な配慮に神経をすり減らすよりも、このような方法の方が容易で効果的だと思うのだが、いかがであろうか。